almost everyday.

its a matter of taste, yeah

二十六夜待ち

  • 終業後、光の速さで仙台セントラルホールへ。二十六夜待ち、ずっと待ってた。それはもう二十六夜どころの話ではなく、年末?なんなら秋口?頃からずっとずっと待ち焦がれていたのでした。何故ってそれは、いま自分と同じ街に暮らす作家の小説が、自分の二十代ほぼ全てを過ごしたいわきで映像化された作品であるとともに、劇伴を仙台の至宝ことyumboが手がけているからに他なりません。これを観ずに何を観る、という話です。いや本当に。
  • そもそもの話として、お膝もとの仙台やロケ地いわきで先行上映されて然るべき作品だと思うんですよね、これ。何だってまた公開から3か月も後回しにされてんですかね。3.11に合わせるため?バカも休み休み言えって話じゃないすかね。いわきなんてまだ上映予定すら決まってないですし。それ以前にまず公式情報がTwitter頼みとか、いくらなんでももうちょっと何とかならなかったですかね…?作ったら作りっぱなしってそれはどうなの。井浦新×黒川芽以W主演という立派な看板を活かさなくてどうするんだって話ですよ。東北、特に福島の民は総じて商売っ気がないっつうかものを売る気があんまり感じられないっつうか、その純朴さ素っ気なさ奥ゆかしさこそがまあチャームポイントと呼べないこともないとかなんとか身内の欲目で結論づけたくなりがちですけど、そういうところを差し引いてもなおいろんな意味で「もっといろいろ頑張れたんじゃないですかね?」と言いたくなりました。
  • 翻って震災当時、わたしはいわきを離れ仙台で暮らし始めてちょうと1年になろうかという時期でした。地域に根ざしてる系の職を生業としている関係で、休む間もなくあちこちの避難所を回る日々が続きました。そんな混乱期を経てしばらく経った頃、心身に異変が現れました。「頑張れ」という言葉をかけられるのが突然ひどく辛くなり、自分の意志とは関係なしにぼろぼろ涙がこぼれるようになりました。寝る間も惜しんで身を粉にして働いて、これ以上何をどう頑張ればいいのかわからない。こんな日々がいつまで続くのかもわからない。あのひとが波に飲まれてわたしなんかが生き残った意味がわからない。何から何までわからない。
  • 生きる意味とか生き残った意味だとか、そんな大仰な話よりもずっと先、そもそも自分が今立たされてる足元の地面すら気を抜いたらすぐに崩れ落ちてしまいそう。そういう状態を訳もわからず駆け抜けて、そこから既に7年が経って、かつてあれほど自分を傷つけた「頑張れ」を今やフィクションの作り手につきつけようとするまでになっている。にもかかわらず、傷口は未だ癒えずかさぶた一枚隔てた奥にまだ血が滲んでいる。手が届きそうで届かないもどかしさ、そこへ直に触れてしまうのを恐れる気持ち。そういうところを焦らずゆっくり、辛抱強く見守るように、あるいは祈りを捧げるように映画にしてもらえたような気がしました。
  • 脚本・監督は「海辺の生と死」の越川道夫、シーン毎のたっぷりとした間はここでも現在。陽光あふれる奄美ではなく、涼しい風が吹き抜ける小名浜でもない、やや内陸寄りに位置するいわきのど真ん中・平。ぎりぎり最南端とはいえやはりどこか東北らしい翳と湿り気を帯びた映像は、かつて十年近くあの町に住んだ自分から見ても完全にそっくりそのまま同じ質感を湛えていると感じました。
  • 撮影は「ワンダフルライフ」をはじめ是枝作品を数多く手がける山崎裕。パートの面接に訪れた由実をカウンター越しに窺う場面、初めて由実に触れようと手を伸ばす場面、時にぎこちなく時に激しく揺れるフレームは心の動きに寄り添いながらもどこか俯瞰しているようで、肌を重ね合う気の昂り以上に痛みや孤独が伝わってくるようでした。夜ごと幾度も身体を交わしてやっと、穏やかな笑みと他愛もない言葉にたどり着いた瞬間が何よりも愛おしかった。8年と2時間と宙に浮いた幾度もの間を経てこその愛おしさだと思えました。
  • 澁谷さんの劇伴は映像効果を増幅するものではなく、クライマックスを引き立てるものでもなく、二人が川べりで摘んでは活ける野の草花のようにただそこにあるものとして鳴っていました。かつて長く暮らした町に、その先の毎日を過ごす街で生まれた音楽がしみ込むように馴染んでいるのは、何だか奇跡を見ているみたいでとても嬉しかったです。
  • もう少しうまくまとめることができたら、後でまた何か書き足すかもしれません。おやすみなさい。