almost everyday.

its a matter of taste, yeah

平穏。

朝、8時15分ジャスト起床。なんかすっごい嬉しい。さっそく朝ドラマ。しかし来週からもう岸惠子さんは出ないのですね。それは寂しい。しかしこれ、やたら展開の早いお話だなぁ。ちょっと見ないうちに仲村トオルと結婚してたり、あっという間に帰らぬ人になってたり。そういうのの方が受け入れられるのかしら。少なくとも自分は、もうちょっとゆるいお話を好みます。職場のお昼休みにふーっとひと息つくものとしては。などと言いながら、結局しっかり見てるんですが。
おふろに入ってすっきりした後、相方とごはん。またしても回転寿司。今日は調子がよかったです。2人あわせて15枚ほどいけました。我々はここのお味噌汁がとても好きなのですが(ぼたんえびの頭がどっさり入ってて、うっとりするほど美味しい)、これがものすごく大きなお椀で出てくるせいでオーダーのタイミングを早まるともうそれだけですっかり満腹になってしまうのです。・・・ということにようやく気付きました、来店5回目にして。遅いっつうの。

部屋に戻り太田胃散を飲み下し(やはり食べすぎ)、マンダリンのお香をたいてしばしお昼寝。なんていうかもう既に、このひととは少なからず同じ血が流れはじめているような気がしてなりません。お腹がすくのも眠くなるのも話そうとする内容もなにもかも、どんどん似てくる。ここまでくるとさすがに少々気持ちわるいです。自分たちはかけ離れた性質の持ち主であるはずなのに、どうしてこんなことが起こるのかしら。

世の双子や三つ子がどんどん似たり、あるいは逆に個性が出たりするのはやはり後天的な要素による部分が大きいのだろうな、なんてことを妙に納得しながら考えてみました。個性が出るのは、それぞれがお互いに対抗意識を持っているからだと思うのです。より多くの時間、庇護者の目を自分に引き寄せておくために。それでもやはり似る部分が出てくるのは、それぞれがお互い無意識のうちに心を開いているから、なのでしょうか。もしも庇護者がいなくなって完全に対等な関係が成り立つとすれば、それはもうすごいことになるよなぁ。それぞれ相手を頼るしかないんだもんな。それがいいか悪いかは別として、ある意味究極のコミュニケーションであるような気がします。もちろん、自分たちはそれとは違うのだけれども。そこまで無垢でも孤独でもない、お互いに。幸か不幸かわからないけど。

夕方、飲みに行く相方を送り届けた後ふらりとミスドへ。コーヒー飲んで1時間ばかりお勉強。そうぞうしい場所でぎゅーっと意識を集中させるのが、わりと好きです。静かなところで教科書を開いても、なんだかそわそわ落ちつかない。高校の頃の、眠くて退屈な授業を連想してしまうせいかもしれません。一度も寝ないで真剣に聞いた授業は、ただひとつしかありませんでした。その先生の声が、不器用な間が、抑揚のつけ方が、心の底から好きでした。もう一回、あの授業を受けたいなぁ。滝沢先生の高村光太郎

・・・集中力も切れてきたので、そろそろ帰るでよ。

今世紀に入ってからはおそらく初めて、ほんとうに久しぶりにザ・ヴァーヴを聴いてます。どこかの中古盤屋で捨て値で買った(裏ジャケには「見本/非売品」のシールつき)記憶があるのだけど、それがどこだったのかどうしても思い出せません。まあいいや。当時はオープニングの「ビタースウィート・シンフォニー」がすごく好きでほとんどそれしか聴いてませんでした。すごく失礼。改めて聴きなおしてみると、雨の日には最適なまったりアルバムということが判明しました。5曲めがどっからどう聴いてもアバの「ダンシング・クイーン」っぽいのがちょっと楽しいです。いや本当に。