almost everyday.

its a matter of taste, yeah

桃を剥くたび思い出す

村上春樹を読み始めたのは、二十歳になったばかりの頃でした。当時わたしは出張の多い仕事に就いており、月に2〜3度職場の車であちこちへ出かけていて、その決して古くないはずのファミリアは誰にも洗ってもらえないまま、ホコリ水垢その他の汚れを地層のようにはりつけていました。というのも職場の車はすべてガソリン代をツケで払うシステムになっており、その支払い方法について詳細を知るものが誰もいなかったため、給油ついでに洗車をしてよいかどうか分からないまま皆知らんぷりを決め込んでいたからです。もちろんわたしもその一人で、車に乗りこむ動作ひとつで服の裾が薄黒くなるような汚れっぷりにおののきながらも、自腹でそれを洗おうなどとはゆめゆめ思いもしませんでした。そこまでしてやる義理はない。おそらく皆がそう思っていたのでしょう、オイル交換にしても誰もそこまで気を回さないものだから、2年に一度の車検時などタール状の黒い塊が出てきて整備士さんは大変苦労したというほどです。ISOうんぬんかんぬん(何度聞いても覚えられない)推進事業所が聞いてあきれますよまったくもう。や、自分もその原因の一端をつくってるんですけどね確実に。
でもまあ、それは一応仕方のないこととして。さらに具合のわるいことに、わたしは車を運転するとき靴を脱ぐ習慣があるのです。自分の車を土禁にしているわけではないけれど、ただただ靴を脱いだ状態でアクセルを踏みたい、いやむしろそうでないと何となく落ち着かない。そんなわけでいつも右足だけ裸足で運転しているという、ああこれでもしも死亡事故に遭ったりしたらつくづく間抜けだなぁとは思いながらどうしてもやめられず、しかしこのときばかりはさすがにそれをためらいました。車の外観が汚い、ということは室内も同程度もしくはそれ以上に汚れてるってことですもの。アクセルなんて脂ぎったおっさんもしくは水虫キャリアのおっさんが裸足で踏んだ可能性も否定できないわけで、一度は脱ぎかけた靴を思い直して再び履く、ということが何度もありました。こんなところで思わぬ病を拾ってなるものか。厄介ごとは避けて通るに限ります。はい。

それである日、いつものようについ習慣で脱いでしまった靴を「いかんいかん」と履きなおそうとした時のこと。シート下へ伸ばした後ろ手に何かが触れた気がしました。紙のような感触なので「きっと誰かが資料を忘れて行ったのだろう」と思い引っ張り出してみると、それが村上さんの本だったというわけです(うずまき猫のみつけかた)。休憩時間にパンをかじりつつ暇つぶしがてら読み始めたら、それが穏やかながらもおもしろく感じられ、気付いてみたらまるごと1冊読んでしまっており、そこから先は本屋へ出かけて既刊の本を端から読んで・・・という感じで現在に至っていると。だから自分の中での村上さんは「ボストン在住」の「マラソンランナー」で「ちょっと気のきいたエッセイを書くひと」というイメージなのです。未だにそれが抜け切りません。しばらく経って「ねじまき鳥クロニクル」を読んだ時はその死に至るまでの痛い描写にショックを受け、ものを食べる気が失せました。それも手伝ってか、どちらかと言えば初期の短編とエッセイばかりをくりかえし読んでいます。「キャッチャー」は文庫になるまで待つつもりです。早く白水社ブックスにならないかしら。だけどそしたら元祖「ライ麦」と同じ装丁になっちゃうよなぁ、どうするんだろう。

・・・・・・というようなことをさっき、「パン屋再襲撃」を読み返しながらぼんやりと思いました。ちなみに、そのとき拾った「うずまき猫のみつけかた」は今もうちにあります。社用車貸出簿を見ればわたしの前の借り手も分かったのでしょうが、見つかった場所がシート下ではいつからそこにあったのやら見当もつかないわけで。厄介ごとは避けて通るに限ります。そして獲った獲物は逃さない、と。うふふ。

相方が帰ってくるまでまだ間があるので閉店間際の本屋とスーパーをちらりと見に行き、HYがお好きらしいので新譜を借りておきました。これはあさっての予習用に。でも自分、ゴーイングアンダーグラウンドも見たいな。悩むわぁ。スーパーでは魚類が軒並み叩き売り状態になっていて、ついテンション上昇。明日はまぐろのづけ丼を食べる予定です。今夜はどうやら、マカ酒のんで火消し屋小町(先週見たらちょっと面白かったので。鳥羽潤って顔変わりませんねちっとも)の再放送を見てから眠ることになりそうな気配。それではおやすみなさい。