almost everyday.

its a matter of taste, yeah

これは行きずりの音ではない

職場を通して受けられる子宮がん検診の予約と、その日の休暇の申請をしてきました。数年前に父親が腸をやられて死にかけただけにとどまらず、もともとうちの家系は両親ともがん及び白血病(これも一種のがんではありますが)で命を落とす確率が高いようなのでいちおう気をつけておこうかと。仮にいま自分が死んだとしてもそれほど多くのひとに迷惑がかかるとは考えづらいのですが、とりあえずやれるだけのことはやっておくに越したことはない気がします。そう遠くない未来に事故か何かで死んじゃうのか、はたまた家族の顔すら見分けられなくなるまで延々生きのびるのか、それはまったくわからないけれど。それでも。

仕事の後、ライブを見に行きました。COMEBACK MY DAUGHTERSLOSTAGE、いずれも名前しか知らないひとたちですが何となくおもしろそうだったので。それにチケットが安かったので。あとは地元のバンドがいくつか出てました。あぶらすましはやはり良いなぁ、と思いました。終演後、CDを買おうと思い物販のところをうろうろしつつ何となく声をかけられずにいたら、いつもにこにこしてるほうのギターのひとが「前も来てくれてましたよね?」と話しかけてくれたのでびっくり。ステージに立つ側のひとに客がいったいどのように見えているのか、というのは自分にとって永遠の謎です。そんなこんなで無事CDを買うことができました。部屋に戻って聴いてみたら、いつも演奏している曲がふたつ入っていたのでうれしくなりました。でもって、最後の曲がフィッシュマンズのカバーでした。ああ、わたしの直感は自分でも知らないうちにあるべき場所のど真ん中を撃ち抜いていたのかもしれません。頭の中でジグソーパズルのピースがぴたりと埋め込まれたような感触。

「もう僕は終わりを考えたりしない」はゆったりとしたテンポの曲で、静かに語りかけるような歌いかたとその詞がとても印象に残ります。中でも特に強く訴えかけてきたのは「しない」と「できない」の使い分けでした。端的に言って「しない」は自らの意志、「できない」は意志の範囲外を表す言葉です。「しない」という決意と「できない」という諦めをひとつの曲の中で同じように歌うというのはどういうことか。つまりは、自分にできることとできないことがきちんと見えているということだと思います。「何でもできる」と大口を叩くのではなく「何もできない」と悩んでみせるのでもなく、そのままの自分をそのままに見て受け止められるということ。それはつよいひとにしかできないことです。わたしにとっての「つよいひと」は、鋼の身体を持つ人でも鉄壁の理論を誇る人でもありません。自分の弱さをきちんと認めて受け入れることのできるひとです。それはある意味においては「したたかさ」と言い換えられるかもしれません。いずれにしても、それはきわめてまっとうなことだと思います。とても素敵だと思う。

ライブ後合流して一緒に飲む予定だった友人は、うっすら予想できていたもののやはりというかなんというか、とにかくひどく泥酔しているとしか思えないメールをよこしてきました。ため息をつきながらも折り返し電話して現在の居場所を確認、すぐさまそちらへ向かい身長差15センチのでかい図体を担ぐようにしてタクシーへ押しこみ、苦笑いする運転手に2千円を握らせてどうにか車を出してもらいました。年が明けたら絶対何かうまいものを奢らせます。おやすみなさい。