almost everyday.

its a matter of taste, yeah

現在、自分に課していることについて

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「他人に迷惑をかけていないのであれば、大抵のことは目をつぶってやりすごしてもいいんじゃないか?」

と思わされる出来事があったのでメモしておきます。

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本日、うちの職場に某宗教の勧誘員さんがやってきました。用件は「職員のみなさんにPRのパンフレットを配付してほしい」というものだったのですが、当然ながら職場単位でそういうことを行うわけにいかないので丁重にお断りしさせていただきました。それは別にいいとして。その方が帰った後たまたまそこに居合わせた人たちの毒舌がすさまじすぎてびっくりしたのです。もしもさっきの人がここにいたら人格崩壊レベルで傷つくんじゃないか、と思うくらいの痛烈な罵倒ぶりでした。この国では一応、信教の自由が保障されているので会話の内容をここに書き出すのは憚られますが、まあ、とにかくひどい偏見に満ちていました。

結論を書く前に自分について一応触れておくと、わたし自身はどの宗教も信じていません。実家は曹洞宗、嫁いだ先も別の宗派にそれぞれ属していますが、いずれも単なる墓の居場所に過ぎません。誰がどこの神を信じていようと、それはそれでまあいいじゃないか。という立場を取ることにしています。

が、それはあくまでわたし個人に面倒ごとがふりかからない範囲での話です。おもてを歩いている最中に突然大声で「最高ですかー!」と呼びかけてくる人たちはどう考えても迷惑以外の何ものでもないし、休日の朝っぱらから勧誘目的で執拗にドアをノックしてくる人たちだって言わずもがなです。冒頭のケースが特に気分を害さないのは、その勧誘がわたし個人に向けられたものではないからと言えます。

(というか、仮に「宗教」の枠を外したとしても前述の例は明らかに迷惑なのですが。知らない人に突然大声で呼びかけられるのも、いきなり自宅に押しかけられるのも同じくらい不愉快ですよね。という話。)

もちろん、こうした考えかたができるようになるまでは(わりと最近です)わたし自身もずいぶん偏ったものの見かたをしていました。宗教、という言葉を耳にしただけで何となく身構えてしまうところがあったように思います。オウム事件以降は特にそうでした。社会的にもそういう風潮があったので仕方ないとは思うのだけれど、やはり全てを一緒くたにしてはいけないなあという気がしています。今は。

で、自分がなぜこうした「寛容な姿勢」をおのれに課すようになったかというと。それはただ、自分自身の中にある「偏見の目で見られたくない」という気持ちに気付いたからに他なりません。

たとえば。わたしはいろんな音楽が好きで、部屋に友人を招くと軽く引かてしまう量の音源を所有しています。わざわざ遠方のライブに出かけたりもします。ありがたいことに現在、音楽を聴くという行為が日本社会全体において「特に怖くもキモくもないごく普通の趣味」という見なされかたをしているおかげで自分もごく平穏に過ごしていられますが、これがもしも宗教だったらどうでしょう。事情はだいぶ違ってくるはずです。しかしながら、これらはいずれも熱意を傾ける対象が違うだけで、「ひとつのものごと」に「のめりこんでいる」という事実はまったく同じなのです。ある日突然何かのひょうしで自分がそちら側へ立たされることになったとしても何らおかしくはありません。

たとえば。ひょっとして万が一自分の好きなミュージシャンが何かとんでもない大事件を引き起こしたりしたら「あいつの歌を聴いてる奴はみな気狂い」くらいの扱いは覚悟しなければならないはずで、これがもしも現実になったりしたらわたしはかなりの精神的ダメージを受けること必至なわけで、できることならそんな屈辱は死んでも味わいたくないと思っているのです。自分がされて嫌なことは他人にするな。と、そういうことに思い当たってからのわたしは、なるべく偏見というものを持たないようおのれを律することにしたのでした。しかたないじゃん、好きなものは好きなんだもの。と。

こうした結論を導き出すまでのプロセスがあまりにも自己中心的かつ幼児的だ。とは自分でも思うのですが、実際にそう感じてしまったという事実は今さらどうにも変えられません。それに、善か悪かを明確に区別できないものごとについての判断は、結局のところ個人のモラルと良識に委ねるしかないというのが現実だと思ってもいます。

未知のものごとに恐れを抱くのは、ある意味では当然の作用です。恐れはせずともある程度の警戒心はあって然るべきだと思います。が、だからといって自分の常識にないものごとをただそれだけの理由で排除していいかと言うと、それは明らかに誤りであると言わざるを得ません。「なんとなく気に入らないからやっつけた」じゃ、それはただのガキ大将です。未知のものごと(と、それに関わる人達)が自分に何らかの攻撃(広義では度を越した偏見も攻撃のうちに入ると思います)を仕掛けてくるようなことがあって初めて「腹が立ったからやっつけてやる」という正当な理由ができるのだと思います。それでようやく、心おきなく戦える準備が整ったと言えるのでしょう。

喧嘩を売るにはそれなりの理由が必要なのです。逆に言うなら、理由のない諍いは避けろ。ということになります。とりあえず、わたし自身はそうやって生きていこうと思ったのでした。

おしまい。