almost everyday.

its a matter of taste, yeah

ひとりで暮らすのだって楽しいんだって知ってるよ

お昼すぎのこと。なんとなくテレビをつけたその瞬間、地を這うように低い中年男性の声で歌われる「ジュピター」が聞こえてきました。あまりの迫力にびっくりして画面をよく見たら、それはNHKののど自慢でした。思わず見入ってしまいました。力強くも暖かいその歌唱は当然のように合格の鐘をもらい、歌い終えた後でそのひとが「2年前に亡くなった娘が好きだった曲なので」と静かに話すのを見ていたら、全然そんなつもりじゃなかったのに涙がだらだら出てきました。自分で自分にびっくりです。

そんなふうにわけもわからず落涙したのはきっと、既にこの世を去っている、しかし今なお大事なひとに「一人じゃない」「繋がってる」と呼びかけずにいられなかったその気持ちと、それを国営放送のテレビ番組で実行に移してしまう大胆な肝のすわり具合とがアンバランスに絡みあいつつ切実な現実味をもって迫ってきたからだと思います。大事なひとを失った後でいくらか時間を経た頃に、人は多かれ少なかれ「常軌を逸脱」したまま「特殊な強さを身につける」のだ。ということを久しぶりに思い出しました。思い出したら鳥肌がたちました。

自分がそういう目に遭いたくないのはもちろんですが(かつて身近なひとがそうなるのを目の当たりにするだけでも充分すぎるほど辛かった)、逆に残された自分の好きなひとが同じ目に遭って苦しむのはもっと嫌です。わたしの場合、身体や心がしんどくなるとやけっぱちで「消えちゃいたい」とか「殺してくれよ」と思うことは度々あります。が、それでも自ら「死んじゃいたい」と願うことが一切ないのは、たぶんその辺りから来てるんだろうという気がしました。自分はきっと、おのれを律する以前にまず、無意識の領域で死なないように気をつけているのです。本能とはまた別のところで。

これは夜の話。スタメンにてオリンピックにおける日本人のメダル至上主義が論じられており「メダルの数だけで一喜一憂する、その感受性の無さが許せない」という太田氏の言葉に少しどきっとさせられました。「結果のみで物事を判断しようとする愚鈍な姿勢への怒り」というのは自分にも少なからず覚えがあって、それはたとえば自分の好きなミュージシャンの新譜に星ひとつの評価が下されているのを見たときの気持ちであるとか、世界陸上の司会者が外国人選手を気やすく呼び捨てにするのを見たときの気持ちなんかにかなり近かったりするのですが、例としては逆に分かりづらいのでもうやめておこうと思います。まあ、ひとことで言うなら「他人の努力にはとりあえず敬意を払おう」というお話。そしてわたしは本日、言うまでもないことではありますが、努力などという言葉とは縁遠いところでふとんに入って惰眠を貪ってばかりいました。明日からはちゃんと働きます。おやすみなさい。