almost everyday.

its a matter of taste, yeah

やさしすぎるなんてことはないだろう?

その職業が何であれ、お金を得て雨風をしのぐことができてお腹を満たすことができてそれなりに暖かいふとんで眠ることもできているのなら、プロフェッショナルとは言えないまでもせめて少しくらいは責任を持とうとしなければならない。とわたしは考えているのだけれど、やはりというか何というか、全てのひとが多少なりともそういう覚悟を決めてるわけじゃない。ってことが骨身にしみてわかると何だかとても悲しくなってしまいます。それが自分よりずっと年上のひとだと、よけいにそう感じてしまわずにいられません。苦しい。悲しい。それに何より、そういうひとたちの尻拭いを結果的にただ何となくずるずると引き受けてしまっている自分にひどく腹が立ちます。こうなってしまわずにいられない、状況と環境とその影響のすべてに。そんなにつまらないのだったら、いっそやめてしまえばいいのに。

とは言え、かく言うわたしも実を言えば仕事を「楽しい」と感じたことはほとんどないような気がしています。思いがけず仕事がはかどって夢中になってハイになって「おもしろい」と思うことはたまにあるものの、それはきっと「楽しさ」とは別の部類の話でしょう。また、仕事を介して出会った人やものとの繋がりを嬉しく思ったり楽しく思ったりすることもあるけれど、それは直接的に仕事を「楽しい」と思うのとはまた違うはずです。というか、それ以前にまず、自分の中で「仕事」と「楽しさ」を結び付けようとする意識がそもそも希薄であったようにも思います。父は仕事を滅多に休まず、朝早く出かけて夜遅くまで戻らないだけならまだしも土日までひょいひょい働くような人です。母親は主婦ですが、その指先は夏でも常にひび割れています。今でもです。自分の好きなこと、得意なこと、さらに言うならやりたいこと、を仕事にしてそれで生活していこうという選択肢を思い浮かべにくい環境で生まれ育ったせいなのでしょうか、そういうふわふわとした現実味のない夢はわりと早い段階でなかったことにして、とりあえず間違いなく生活できていけそうな仕事を選んだのは。

ちなみに。父親は、わたしが家を出ていわきに越してきた頃(今から6年ほど前)、デスクワークが日の大半を占めるわたしの業種をさして「何とか仕事にはありつけたかもしれないけど、きっとすぐに音を上げるだろうと思ってた。そんな仕事がお前に耐えられるはずはないと思ってた。お前は俺にそっくりだから」というようなことを言ったのでした。心配されてるのか見くびられてるのかよくわからないけれど、何故だか変にうれしかったのをよく憶えています。確かに、わたしはあなたにそっくりだ。負けず嫌いなところが特に。おやすみなさい。