almost everyday.

its a matter of taste, yeah

ほんとうのことはきっとだれにもわからない

明け方の夢に、唐突に、もう長いことお会いしていない先生があらわれました。豊かな銀髪がうるわしく、語る言葉も所作もおっとりとやわらかく、それでいて眼光はやけに鋭い。というふしぎな先生です。ちなみに教科は英語でした。初めてお会いしたときから既に70の坂を越えていたはずなのですが、とてもその年代の人とは思えない、まるっきりネイティブみたいにすばらしい発音のできる稀有な存在でした。いつだったか、その先生が教え子と話しているところにたまたま居合わせたことがあって、そのやりとりが何故だか今も深く胸に刻み込まれたままでいます。「英語って、どう勉強すれば上達するんでしょうね」と尋ねた教え子に対して、その先生はいともあっさり「英語をちゃんと話したかったら、まずはきっちり日本語を話せるようになりなさい。いろんな人と話しなさい。まずはそこからです」というような言葉を返していたのでした。それを今でも、たまに思い出します。

そしてこれは、きっと英語に限ったことじゃなくて、他のいろんなものごとに敷衍できることなんだろうな。というのが今になってようやくほんのちょっとずつわかってきた気がするのです。何かひとつのものごとを突き詰めて理解して自分のものにしようと思ったら、それだけじゃなくてそこに付随するいろんなものを取り込んで、かみくだいて、消化して、自分の力で血肉にしなきゃだめなんだってことなのだ。とわたしは勝手に解釈しているのですが、どうかしら。どこかの何かで見たり聞いたりして手っ取り早く手に入れた出来合いの知識じゃなく、自分で動いて迷ったりまごついたりふらついたりしながらどうにかたどり着けた結論のほうがずっと強く深く刻み込まれるに違いない、というよりはそうであってくれと願う気持ちのほうが強いわけですが。受動よりも能動。ちょっと気が緩むとついつい安きに流れてしまいがちな自分には耳の痛い話です。でも、ちゃんとしなくちゃな。大人なんだから大人なんだから大人なんだから。おやすみなさい。