almost everyday.

its a matter of taste, yeah

ほら、これもまた真実。

運命について思うことをいくつか。

まずは基本的な姿勢について。「運命」の正確な定義はさておき、わたしの中のルールに限って言うならまず第一に、マイナス方面の運命はいっさい信じないことにしています。「仕事で重大なミスをした」「恋人と別れた」等の不幸な出来事は往々にして自分の不注意もしくは怠慢によってもたらされるものであって、やるべきことをやっていればある程度までは確実に回避できることだと思うからです。また、「交通事故に巻き込まれる」「若くして家族を亡くす」等、自分の過失によらない不幸な出来事について言うなら、それを単に「運が悪かった」等と言って諦めてしまうことがどうしてもできません。責任の所在を明らかにできる見込みがあれば何としてもそれを追いかけ追い詰め白日の下に曝したいし、仮にそれが不可能であるならば、いつまでも、その得体の知れない悪意のかたまりに対する怒りを抱いたままで過ごすことを選びたいと考えます。というか実際のところ、正確に言えば、忘れたくても忘れられないのです。わたしの大事なものを奪っていったその罪を負うべき相手を見つけられないだなんて、これ以上の怒れる理由があるとはとうてい思えないのです。忘れたくても、忘れようにも、時折それは闇夜に響く招かれざる客のノックの音みたいにわたしを根底から揺るがしてしまうのです。1年たち2年たち、そろそろ10年たとうかという今になってもいっこうに埒が明かないので、そろそろ腹を決めることにしました。諦めることを諦めました。忘れないことにしました。許さないことにしました。それがまずひとつ。

ならば、プラス方面の出来事はどう受け止めるのか?というと、ここにはあまり歯切れのよい答えを用意することができそうにありません。ただ、それは、「わたしを根底から揺るがしてしまう」ような暴力的かつドラマチックなものではなく、じっと息をひそめて静かに口をひらいたままでただその時を待っている、暖かい光やいい匂いのする草や土やきらきらひかる子供の目玉みたいなもののそばにある小さな落とし穴のようなものなんじゃないかという気がするのです。そこへ落ちたからと言って、現実と地続きになっている(はずの)未来ががらりとその姿を変えてしまうわけではない。けれど、自分の目に映るいつもと変わらないはずの景色がどうも少し違って見える。それも、何だかやたらいいものに見えてくる。わたしは、そういうものだけを「運命」と呼びたいのです。それがあらかじめ決められていたことだと思えば、特別なことだと思えれば、すごくすごくしあわせだと思うのです。それはまるで、恋におちるのと同じように。たぶん。

こうまで長い前ふりを経て、一体なにを言いたかったのか?という続きはこの下で。胸がいっぱいでうまく眠れそうにないくらいどきどきしているのです。ああ、どうしよう。まずはおとなしくふとんに入って目をつむろうと思います。おやすみなさい。