almost everyday.

its a matter of taste, yeah

生きがいの発信源 違和感アリだよもう

写真:なんとなく気持ちが落ち着かないとき・またはむしゃくしゃするときなどに「野菜を大量に剥いたり切ったりすると理由はよく分からないながらも何となくすっきりする」という効能があることに気付いてからというもの、それが運よく週末にぶつかったときは実行に移すようつとめています(平日だとさすがに消費しきれない)。ちなみに写真に写ってるのは大根まる1本・にんじんごぼうそれぞれ2本分です。それにしても、こういうふうに「ぐずった自分をうまいことなだめすかす」みたいなテクニックを新しく見つけたり身につけたりするたびに、嬉しいのか虚しいのかよくわからない気持ちになります。自分、これ以上強くなってもしかたないのに。
続きはまたのちほど?
というわけで、その続き。たぶんきょうは夜更かしです。湯舟にとぷんと身を浸して、読んでいたのはこれ↓でした。
意味がなければスイングはない (文春文庫)
なんだかんだで3時間くらい、ジンジャードラフト2缶飲み飲み追い炊き繰り返してふむふむと読みました。特定のジャンルで活躍するひとが専門外のことについて書いたり語ったりするのを読むのがわたしはすごく好きで*1、それっていうのはつまり、個々のジャンルで既に確立されている様式や文脈をまったく無視したところから説明が始まることで新たな視座を与えてもらったような気持ちになれることが楽しいのでしょうけれども。それが「門外漢の突飛な発想」という枠にとどまらず、ある程度の説得力をも感じさせるところまできっちり説明してくれてるので、読んでて何だか楽しい気持ちになってきます。とはいえ、レディヘやベックを引き合いに出すんだったらそこらへんも余さず論じてほしかったな。という気もしますがそれはそれとして。
夜が長いので、あてもなくいろんなことを考えたりしています。今は何故か唐突に、自分がなぜ「じぶんさがし」という言葉を好きになれないのか。ということについて考えてみようという気になりました。おまたせMさん、ようやく答えが出るかもしれんよ。
まず「自分がまだ知り得ていない自分の趣味嗜好および可能性みたいなものを探すために旅に出る」とか、そういう行為についてはまあ、おのおの好きにしたらいいんじゃないかという気持ちが大きいです。現在自分が置かれている状況をよりよくするために自らアクションを起こしてる、というのはいいかわるいかで言えば多分いいことなのだという気がするので。とは言え、多少穿った見方をすれば、そういう精神的なり金銭的なり余裕があるからそういうことを実行に移すのが可能なわけで「てことはあんた、別にそんなにせっぱ詰まってるわけでもないよね?」ていう嫌味のひとつも言ってやりたくならないこともないわけですが、もちろん言わない。大人だから。
それより何よりかなしくなるのは「今の自分は本当の自分じゃない」みたいなことを平気で言えちゃうひとを目の当たりにしたときです。どれだけまわりに問題があったか知らないけどさ、どれだけあなたが虐げられてきたか知らないけどさ、そういうことはひとまず置いといて、自分のことを自分以上に考えてる人なんてのはまずいない。それはたぶん真実だと思う。ひょっとしたら自分の子供のことを自分以上に案じる、だなんてこともあるのかもしれないけれど、わたしは人の親になったことがないからそれはわからない。でも、人が人の親になるのはたいてい自分の人生を20年とか30年とか生きたあとのはずだし、それ以前の人生も含めてカウントしたら多分自分のことをいちばん多く考えてることになると思う。お腹すいたとか喉かわいたとか眠たいとか学校行くのめんどくさいとかバイト変えたいとかやりたいとかやりたくないとかあのひとが好きとか嫌いとか、そういう細かい取捨選択を毎日毎日繰り返しておきながら、言い換えれば毎日自分と(無意識のうちにかもしれんけど)向き合っておきながら、それでもなお「今の自分は本当の自分じゃない」とかそういうことを平気で言えてしまうことがわからない。笑う自分も泣く自分も優しい自分も残酷な自分も保身に走る自分も情けない自分も、現時点ではぜんぶ本当の自分だ。とわたしは(あきらめ混じりに)思うのだけれど、若いひとにはこれが堕落に見えるのでしょうねきっと。ああ。できることなら説教くさくならないようにうまいこと書きたかった、けど金曜夜の酔いと眠気の前ではこれが限界みたいです。ごめんなさいね、続きはあちらで。おやすみなさい。

*1:もっとも、かつて音楽に関わる仕事で生計を立てていた村上さんの場合はこのケースに当てはまらない気もしますが