almost everyday.

its a matter of taste, yeah

可能性はもういい

終業後、おつかいのため書店へ。合計2万7千円ぶんの図書カードを購入。思わず持ち逃げしたい衝動にかられるも、もちろんそんなことはしない。
包装が終わるのを待つ間、自分用にこの2冊を買いました。
ティファニーで朝食を (新潮文庫)
海を見たことがなかった少年―モンドほか子供たちの物語 (集英社文庫)
ノーベル文学賞のおかげで、長らく店頭から消えていた*1「海を見たことがなかった少年」がふたたびラインナップに加わりました。というわけでさっそく買いなおしました。ああ、うれしい。常に内ポケットに入れて持ち歩きたい。そのくらいうれしい。
ティファニーで朝食を」は、村上春樹の新訳が出てたので。龍口直太郎訳のほう(表紙がヘップバーン)を最初に読んでからだいぶ経つので話の筋もあらかた忘れてたくらいですが、とりあえず読みやすいなあと思いました。全体的な流れよりも印象的な描写や台詞のほうが強く記憶に残っている、ということに気付かされて何だかいろいろ巧いなあ、と今さらながらにあらためてそう思った次第です。「このりんご、だめになってるわね」とかいう台詞にいちいちはっとさせられて、初めて読んだときに思い描いてた画がそのままそっくり思い出されてしまったりとか。
それで、たった、ひとつだけ。村上訳でひとつだけ、どうしてもひっかかるところがあります。「ぶちまけた話」っていうのは、口語体としてどうにもこうにもしっくり来ない。リズムが合わない。さらに砕いて「ぶっちゃけた話」とするのが現時点での最も自然なかたちなのだろうけど、それが早いペースで古びるのを見越してわざとそうしているのだろうってこともわかるんだけど、それでもどうにも飲み込めません。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」でも使ってたっけな、確かこれ。あれから5年?くらい経っても依然としてまだ「ぶっちゃけ」はありかなしかで言えばそれなりに「あり」だと思うので、そろそろ解禁してあげてもいいと思うのだけれど。
「モンキー・ビジネス」のサリンジャー特集以降なんというかこう、イノセンスづいてるというか、主題もしくはそれに近いところにそういうものが掲げられてる本を読むことが多いのですが。作品自体はもちろんおもしろいし心にじんわり入ってくるし読めばそれだけ感銘を受けたりもするのだけれど、それとは全く別のところで*2だんだん腹が立ってきます。そのいらだたしさの原因を、わたしはずっと長いこと「いい歳した大人が『純粋』だなんて恥ずかしげもなく」みたいなところから来るものだとばかり思ってましたが、それは違うってことに気がつきました。「純粋」の対義語は、ある意味では「成熟」だと思うんです。自分は、とっくに、純粋ではない。だからと言って成熟できたわけでもない。宙ぶらりんでどっちにも行けない、それはきっと純粋よりもたちが悪い。そういう自分に腹が立つんだろうな多分、という気がしてきました。それでもいいよ、今は別に。焦れば焦るだけ、もっとたちが悪くなるだけだ。せめてのんびり行きましょうよ、と自分をなだめながら眠ります。おやすみなさい。

*1:というのは、単にここらへんが田舎だからという理由付けがもっともふさわしいっぽいです。奥付を見るかぎり絶版だったわけではなさそう

*2:というのは「作品とは関係のないところで」ってことです