almost everyday.

its a matter of taste, yeah

まっさかさまに映るテレビ

父親は、どうしても最後に一度だけ、自分で車を運転したかったようなのです。
無論、母と姉は大反対でした。医者に止められているだけならまだしも、歩くことすらままならない今の状態でそんなことをして万一のことがあったらどうする?と。正論です。そんなのわたしにだって分かってる。だけど、それでも、わたしには同じことが言えませんでした。望みを断たれることで失われたり損なわれたりする気持ちを慮るってのもあるにはあるけど、本当のところはそうじゃない。ダメって言われたらよけいに燃えてしまうから、なのです。父とわたしはそういうところがよく似ています。ものわかりのいいふりをして、心の底ではちっとも聞いちゃいないところなんかがもう、忌々しいくらいに。だからまだ安心していて大丈夫なのです、きっと。だってあのひと、たぶんまだ懲りてない。ぜんぜん。いいのか悪いのか。いや、いいんだってことにしておかなければならないのでしょう。わたしたちはしたたかなのです。そうだよ、死んでる場合じゃない。
「死にたいと願わないこと」をおのれに課してずいぶん経ちますが、今さらながらに思うのはそれがいつだって自分を「死なれる・残される」側に置くという前提あっての考えかただということです。あんな思いは二度とごめんだ、と考えながら、もしも自分がいなくなるなら大事なひと全員に憎まれまたは忘れられてからにすべきだろうな。などと込み入ったシミュレーションを試みることができるほどの冷静さを獲得した今となっては、それはもはや何の意味もなさない形骸化したおまじないのようなものかもしれません。あるいはただの気概みたいなもの?死にたいとは死んでも言わない、みたいな。
例によって、これはいま長距離バスの中で書いてます。揺れる車内で、携帯電話のボタンをぷちぷちぷちぷち押してます。通路を隔てて隣に座った女子高生3人組の話し声があまりにうるさく辟易してましたが、ようやく静かになったと思ってそっとそちらを覗いてみたら、思いがけなく寝顔が可愛らしいので何だかひどく切ない気持ちになりました。誰にでも戦う場所はあるのです。戦うように楽しんでくれよ。って、これは谷中さんの言葉だったかしら。わたしも今は眠ります。おやすみなさい。