虎は死して皮を残し、人は死して名を残す。
父は歴史に名を刻むような人間ではありませんでしたが、わたしにとってはただひとりの、尊敬に値する父でした。そして、一介の小市民であるわたしには当然ながら彼の銅像を建てることも伝記を残すことも叶いません。それならば、せめてここに彼の生涯を綴りたいと思いました。
父は1948年の夏の終わりに生まれました。4人兄弟の末っ子でした。彼はきょうだいの中でただ一人、母親からひと文字とった名前を与えられましたが、それが末っ子云々と何らかの関係があるのかどうかは分かりません。父親は腕のよい大工で、銃刀類の扱いに長けていたことから徴兵を免れたそうです。後に父が建てた家は彼(わたしにとっての祖父)の手によるもので、それは慎ましく小さいながらも実に堅牢なつくりをしています。なにしろ2009年現在、建築から優に35年の月日を重ねた今なお、この家のメンテナンスは水回りに少々手を加える程度で済んでいるのですから。ありがとうじいちゃん。
幼少期〜青年期における父の性質を簡潔に言い表すなら、やはり「やんちゃな末っ子」というのが最もしっくり来るように思います。戦後のごたごたもひと段落ついた頃に生まれた、ということで親からも兄姉からもきちんと愛されて育ったのでしょう、いかにも子供らしく荒っぽいエピソードには事欠きませんでした。
例を挙げるとすれば、まず真っ先に思い出されるのが「喧嘩は強い奴から倒せ」に始まり「殴るなら拳で眉間を一発だけ」に終わる武勇伝です。自分は初めてそれを聞かされたとき「そんなこと言われたってきっと一生役に立つことなんてないよ…」と半ば呆れたものですが、それからしばらくののち10代半ばでたった一度だけカツアゲに遭ったとき、内心悲鳴をあげながらもちゃっかりそれを応用させていただいたことがありました。よほど力んでいたと見え、拳に残った青痣が2か月以上も消えなかったことを思い出すたび相手のヤンキーに謝りたい気持ちになります。拳で他人を殴りつけたのは、後にも先にもあれっきり(だと願いたい)です。
それからもうひとつ。父が15歳のとき、彼の両親は公立高校の受験を強く勧めましたが、本人はとうとう最後まで首を縦に振りませんでした。曰く、「普通科で勉強したいことは何もない。自分のやりたいことができる学科は公立高校にはない。だから公立高校は受験しない。どうしてもって言うなら受験してもいいけど白紙で出してくるよ。いい?」…我が親ながら惚れ惚れするほど真っ直ぐで、かつ弁の立ついやなガキだなーと思ったことをよく覚えています。
そんなこんなで、父は首尾よく機械科のある私立高校に入学しました。主に電気機器類製造に携わるエンジニアとしての知識と技術を習得しつつ、放課後は水泳部で毎日1,000メートル以上を泳ぐという充実した高校生活を送ったそうです。これらのことから分かるように、彼は無類の機械好きで手先が器用で、かつ運動神経がよく体力もありました。残念なことに、娘であるわたしはその優れた資質をひとつも受け継いでいません。彼の血を分け合ったただ一人の姉妹であるわたしの姉は、身内贔屓を抜きにしても瞠目に値する優れた運動神経の持ち主ですが、機械類に関しては特段興味がないようです。そうした遺伝子情報はいったいどこへ消えてしまったのだろう?と考えるととても残念で仕方ありませんが、もしかしたら姉の子あたりに隔世遺伝があるかもしれないのでそこのところは深く考えずにいようと思います。
やがて父は高校を卒業し、隣町の電気機器メーカーに就職しました。自分の後から大卒で入ってきた、いわゆる年上の後輩に対し「自分よりも仕事ができないのにそれでも給料が高いのはけしからん」と上司に直談判して自分の給料を上げさせる(!)などのやんちゃぶりは健在ながらも、それがただのビッグマウスではないことを示すための努力は惜しみませんでした。経験に裏打ちされた知識を蓄え数々の資格を取得し、24歳で結婚する頃にはいくつかの製造ラインを任されるまでになっていたそうです。
やんちゃで不遜で態度がでかく、気の合わない相手とはろくに口もきかないような気の強さを持ちながらも、その一方で人懐こくて情に厚い。という壮年期以降の父の性格は、おそらくこの頃に形成されたものであろうと推察されます。先月の葬儀に駆けつけてくれた当時の同僚さんは、こんな話を聞かせてくれました。「私、そのころ母の介護で家と会社と病院をぐるぐる回る生活してまして。ろくに眠る時間もなくて会社だって遅刻ばかりで、それでいっぺんとんでもないヘマをやらかしたことがあるんです。ラインひとつ丸ごとパアになるような、すごい損害のやつ。それをね、どうやったのかは分からないけど隠してくれたんです。あなたのお父さんが。あれがばれたら、間違いなくクビだったんですよ私。私はね、あんなにも誰かに感謝したことなんてない。それまでも、今までも。きっとこれからもです」…なんだよ父ちゃん、そんな格好いいことしちゃって!すごいじゃないか。しかしよくバレなかったなそれ。いったいどうやって隠したんだろう。
話は変わって、家庭における父の話を少しばかり。それはもう絵に描いたような亭主関白というやつで、専業主婦である母に家事の一切を託しひたすら仕事に邁進していたようです。現代社会ではもはや幻想と化しつつある「旧きよき男女の役割分担」とやらが美しく機能した最後の時代だったのかもしれない。などと娘である自分は考えてしまうのですが、幸いにも母は母で家庭に収まることを良しとするタイプだったので、その点においては似合いのカップルだったと言えるでしょう。そのことの是非はともかくとして、父はよく働くひとでした。平日は言うに及ばず、土曜も下手すりゃ日曜も、辛いともだるいとも言わずに黙々と出かけて行きました。思い返してみると、体調を崩す等の理由で父が仕事を休んだという記憶が一切ないような気さえしてきます。まさかそんなことはないだろうけども、とにかく父は仕事に関する不満や愚痴を(少なくとも家庭においては)いっさい口にしませんでした。その姿は今なお、社会人となったわたしの中の「かっこいい大人像」として揺るぎない存在感を保ち続けています。
そこでよくよく考えてみると、わたしが考える「かっこいい大人」とは、そのほとんどが父の性質に起因するものなのでした。かっこいい大人は泣き言を言わない。かっこいい大人は言い訳をしない。かっこいい大人は酒を飲んでも飲まれない。時には進んで道化になる。人のせいにしない。本音と建前を読み分ける。群れない。流行を追わない。誰の言いなりにもならない。…これら全てを父が為し得ていたかどうかは分かりません。やむにやまれず持論を曲げたことだって、その61年の生涯においては何度かあったのではないかと思います。それでも、父は基本的には嘘をつかず、真っ直ぐで、そして相当あまのじゃくな人間でした。そして、母と姉は口を揃えてこう言うのです。「お前は父さんにそっくりだ、姿かたちも性格も何もかもが」と。
そうは言っても、わたしは先に述べたような「かっこいい大人」たる性質を、三十路の坂を越えた今なおひとつも備えてはいません。泣き言は言うし言い訳だらけだし、おまけに近年めっきり酒に弱くなりました。しかし、だからこそ、父を誇らしいと思えるのかもしれないです。そして、その背中を追い続けるがゆえに「父さんそっくり」と言われてしまうのでしょう。できるできないは別にして、目指すゴールはたぶん一緒。おそらく、そういうことなのではないかと。
姉は、わたしによくこんな話をします。曰く、「私はよく父さんに殴られたけど、あんたはちっとも手を上げられなかった」。幼少時のわたしはしょっちゅう自家中毒で倒れる軟弱な子供だったため、殴りたくても殴れなかったのではないか…と思うのですが、それさえも姉にかかれば「あんたの言い分が自分に似てて、いちいちよくわかるから怒りそのものが湧かなかったんだよ」ということになるようです。あれはいつだったか、たしか中学生の頃「どうしてわたしは殴られなかったの?」と問いかけてみたことがあって、そのときは「二人目だからそういう(=厳しく躾ける)情熱がもうなかった」と笑いながら返されたのを覚えています。…これって一歩間違えれば非行に走られても文句の言えないコメントだと思うのですが、結果わたしは至極ふつうの思春期をやりすごし、グレることも父を敬遠することさえもありませんでした。きっと父には分かっていたのだと思います。わたしがその軽口を、おそらくは真剣に受け止めないだろうということが。父もわたしも、必要以上にベタベタしないし時には下らないことでゲラゲラ笑い合う、そういう距離感を長いこと保ち続けていました。それがもっと、長く続くと信じていました。
父が最初に倒れたのは8年ほど前、早期の大腸癌でした。幸い手術を経て完治し、その後は年に数回の検査入院だけで元気に働いていましたが、昨年春の検査で血中のある数値が飛び抜けて高いことが分かりました。癌の世界では一般的に「治癒後5年以内に再発がなければ安心」と言われているようですが、その壁をなんとか越えてほっとした矢先の出来事でした。しかも、それは再発ではなく完全に新しい癌でした。肺原発性小細胞癌という、進行速度がとりわけ速い癌です。その知らせが届いたのはちょうど桜の頃だったのですが、その時点で「おそらく夏は越せないでしょう」という宣告が下されました。それが「年は越せないでしょう」「桜は見られないでしょう」「お盆は無理でしょう」と次々に変わり、結果1年半以上も生き長らえることができたのです。抗癌剤や放射線といった治療法がことごとくよく効いてくれたこともあり、主治医の先生は「(このステージから治療を始めて)ここまでがんばってくれた患者さんは初めてです」と舌を巻きました。また、どういうわけか髪の毛がとても豊かで、治療を経て抜けた髪がその都度きちんとまた生えてくるので皆驚きました。いずれも理由はわかりませんが、とりあえず珍しいことに変わりはないようです。
発病後すぐに、父は告知を受けました。母と姉とわたしを含む5人がそのテーブルについたからかもしれませんが、詳細な説明を顔色ひとつ変えずに淡々と聞く姿からは恐れも諦念も見受けられませんでした。その後のどんな治療にも不平を言いませんでした。しかし、癌が肺から骨へ、脊髄へ、そして脳へと転移するにつれ次第に言動が不可解になってきました。
10月、食事を取るにも箸を持つ指先が震え、トイレに立つのも人の支えを要するまでに病状が進んだ父は、もはや姉とわたしの見分けもつかないほど衰弱していました。目を離した隙に点滴や尿管を外してしまうため、片時も傍を離れることができない母の疲労は既に限界に達していました。それを見かねたわたしが休暇をとってヘルプに入り、それから幾日か経ったある日のことです。衰弱しきってベッドに横たわる父は、それでも時計と財布と携帯電話だけは頑として手元に置きたがりました。どうやらそれが、父とこの世界とを結びつける最後の砦だったようです。父は何度も、毎日のように「同僚たちへ電話をかけたい」と訴えましたが、相手の方を驚かせては申し訳ないとの理由でいつもそれとなく話を逸らしていました。しかし、その日はわたしが目を離したわずか数十秒の間に、たまたま偶然(おそらくは発信履歴から)同僚さんの一人へ電話がつながってしまったようです。電話を取り上げる間もなく回線は繋がり、そして次の瞬間、わたしは心底驚かされることになりました。何故って?この数か月、力なく眠るばかりだったはずの父が、かつて元気だった頃と全く変わらない調子で朗らかに話し始めたからです。これは夢か、と息を呑み目を見張りましたが、どうやら現実のようでした。話題は当たりさわりのない世間話に始まり、ほどなくして現在の病状説明へ移ります。「いやもう俺さー、駄目なんだわもう。あと2〜3週間くらいで死ぬんじゃねえの多分」と、深刻さのかけらもない口調で話し出した時には、驚きを通りこして恐怖すらおぼえました。そして、わたしは自分でもそうと気付かないうちにぼろぼろ泣いていました。発病後、父の前で涙を流したのはこの時一度かぎりでしたが、父にはそうとう大きな衝撃だったようです。会話を終えて電話を切った後の父は元の弱々しい姿に戻っていましたが、それでもわたしを案じていました。「どうした?」「何があった?」「具合が悪いならここに寝ろ」と言って自らベッドを空けようとするに至っては、涙腺決壊どころか膝から崩れ落ちそうなほどめちゃくちゃに泣いてしまい反省することしきりです。同じ病室で同じように泊まり込んでた親切なおばさまのおかげで何とか持ち直すことができましたが、今でもその時のことを思い出すたび後悔と安堵が交互にやってくるような、不思議な気持ちになります。そして、父と会話らしい会話をしたのはこれが最後になりました。
父が死んでから今日までずっと、表面上は穏やかながらも救われない気持ちに押し潰されそうでした。「その死に際に立ち会えなかった」という重い事実が、手を変え品を変え襲い掛かってくるように思えてなりませんでした。父がわたしを待たなかったのは、わたしを愛していなかったからだ。とさえ思いました。誰かと一緒にいれば一時的にその思いは消えましたが、ひとりになるともう駄目でした。いつまで経ってもこんなことではいけない、そろそろきちんと立ち直らなければならない。と奮い立ち、この長い文章を書いた次第です。書いたからって何が解決するわけでもなく、事実は事実として永遠に残るのみですが、それでも自分の気持ちをきちんと整理しておきたかった。
明日からは、これを乗り越えた新しい気持ちで日々を送れるように努めたいと思います。さようなら、父ちゃん。きっとすぐにそっちへ行くよ、たぶん50年もかからないから。それまで気長に待っててください。おやすみなさい。