almost everyday.

its a matter of taste, yeah

House Is Not A Home

実家を売りに出すという話はしばらく前から聞かされていたのだし、他にもいくつかの選択肢を比較検討した上で、それが最善の方法なのだと納得していたつもりでいました。しかし、いざ実際に不動産サイトでそれを目にしたときの衝撃は、予想を遥かに上回る大きなものでした。自分の中にある全ての言葉が、ものの一瞬で焼き尽くされて真っ白になった。もう帰れない、帰る場所がない。生まれ育った場所を、これで本当に永遠に失うんだ。と思ったら他には何も考えられなくなりました。
その後すこし冷静になって考えてみると、その空白をもたらしたのは「実家を失う」という喪失感よりも「実家に値がついた=市場価値を持つ商品になった」という衝撃によるところが大きいように思えてきました。その金額が示すのは単に家としての価値のみであるはずなのに、こちらはとてもそんなふうには思えない。あの家で過ごした時間や思い出や、そうした形を持たないものまで全て含めた金額なのだと考えてしまわずにはいられないんです。「おまえが大事にしているものは、この金額で手に入れられるものなんだよ」というジャッジが下されたようでひどく空しい。これこそが空白の正体なのでしょうか。わからない。
父亡き後、母は姉一家が暮らす家に身を寄せています。父の位牌もそこにあります。なので、今は姉の家がわたしの帰る場所です。家じゃない。人だ。大事な人のいるところが帰る場所だ。そう思えたら悲しいことなんて何もない。そうに違いない。今になってあらためて、わたしたちが仲のよい姉妹であるというのはほんとうにほんとうに幸運なことだ。と思いました。心から。
そういうあれやこれやとは対極にある実務的な話をひとつ。とある企業へ、心をこめて、苦情のメールをしたためました。怒りをきちんと順序立てて説明するには、ただただ喜びを伝えたい時の10倍以上時間がかかる。と思いませんか。保証の有無を問い合わせるメールに到達通知よこしただけでその後5日連絡なし、しびれを切らして再度確認を入れてみたら「現況をできるだけ詳しくお知らせください」というメールが送信専用アドレスから送られてくるに至っては、さすがに腹も立ちますよという話なのです。ああ、残念だ。おやすみなさい。