almost everyday.

its a matter of taste, yeah

それでも歩き出す

そういえば、このところ、自分が死ぬ夢を見ていない。
それはこの街へ越してきたばかりの頃によく見ていた夢で、毎回毎回必ず同じ内容でした。わたしはいつもの通勤路を自転車漕いで帰る途中で、辺りは暗く、遊歩道の入口にある車止めと車止めの間を通り抜けようとして、そこに普段はなかったはずのロープが張られているのに気付かず転び、地面に頭を打ちつけ、どろりとした赤黒い血に視界を遮られて意識を失う。そしておそらく、そのまま意識は戻らない。そんな夢。
もちろん、そういう夢を初めて見た日は「縁起でもない」と暗い気持ちになり、件の車止めの間を夢と同じように自転車で通り抜けるのが怖くなったりもしました。しかしこれを週に3日、どうかすると週に5日という密な頻度で何度も何度も繰り返し夢に見るうち、自分の中の恐れにも似た気持ちが次第に薄れてくるのがわかりました。痛くて不穏で得体のしれない、できることなら二度と見たくない類の夢にもかかわらず、こうして何度も繰り返すうちに愛着のようなものが湧いてきたとでもいうのでしょうか。いや、そうじゃない。そうじゃなくてそれは多分、この夢をみることが日課のようになってきてしまったから、なのだという気がします。
その暗い遊歩道を毎日、夢と同じように通り過ぎるたび無意識のうちに「ああ、今日こそ本当に死んじゃうかもしれない」と考え、夢が現実にならなかったことに小さく安堵する。毎日毎日、それを繰り返す。「自分はいつかここで死ぬ」と思い詰めるまでには至らないものの、他の別な理由で命を落とすよりはずっと高い確率でそうなるだろうと考える。何しろ毎日ここを通るわけだし。不穏な想像はいつしか日常と混ざり合い、分かちがたいものになる。そして生活の一部になる。おそらく、そういうことなのだろうと思います。
今ではもはや、その遊歩道を通りがかるたび「今日こそ転ぶ。今日こそ死んじゃう。今日こそ本当に」とラップよろしく脳内で唱え、それが現実にならないことを当たり前と信じて疑わないほどになりました。しかし、その可能性がわたしの中から消えてなくなることはもうありません。気分のいい日は「今ならここで死んでもいいかも」と思うし、いやなことがあった日には「こんな気持ちじゃまだ死ねないよ」と思う。淡々と。明日の仕事の予定に思いを巡らせたり、その日の夜の献立を考えたりするのと同じように。
そういうことがあったからでしょうか。昨年秋に父が他界してからずっと、生きることとか死ぬことだとかに変に過敏になっていたのが少し楽になりました。だって、結局、避けられないもの。選べないもの。いつかは死ぬもの。ならばその時はその時でしょうよ。と頭で考えるだけじゃなく、感覚としてそれが解るようになってきた気がします。それが良いことなのかはさておき、気持ちを日々すこやかに保つためにはなかなか有意義であるようです。少なくとも自分の中ではね。夫がなかなか目を覚まさないので、書こうと思って忘れてた長い文を書いてみました。また夜にでも。
その後、夫が起きてきたのはお昼すぎでした。どんだけ疲れてるんだ。というわけで今日は終日ゆっくり。それからラーメン、TSUTAYA。夫は立ち読み、わたしは試聴。洗濯物もよく乾きました。穏やかな休日。
それでさっき、何気なく見始めた日テレのドラマにライス関町が出ててびっくりしました。高校生役って!いつか田所もカメオ出演してくれたらいいな。おやすみなさい。