almost everyday.

its a matter of taste, yeah

Happen To Die

写真:ゾロ目ラブ。
それは1978年6月12日のこと。
とある若い母親は、生後10日の次女とともに産院から家へと帰ってきたばかりでした。家にいたのは二人のほか、産後の世話をみるべく駆けつけた実の母と3歳10か月の長女。泣き止まない次女をなんとか奥の間に寝かしつけ、やれやれとひと息入れてお茶など飲みはじめたところに襲いかかったのがあの宮城県沖地震でした。マグニチュードは7.4。あっという間にぐしゃぐしゃになった居間から慌てて逃げ出し、どうにかおもてへ飛び出した3人が目にしたもの。それは、めくれ上がって粉々に崩れたブロック塀でした。言葉を失う3人。無理もありません。何故ってそれは、数年前の道路拡張工事に伴い庭の一部を手放した際に立てたばかりの、まだ新しい塀だったのですから。これが後に語り草となる、ブロック塀の手抜き工事というわけです。もっとも、それが大きな社会問題となるのはまだしばらく先のことなのですが。この瞬間には、誰もかれもが驚き逃げ惑い腰を抜かしていたようでした。少なくとも、福島県北部に位置するあの町では。
ここでふと、思い出したように若い母親の実の母(以下祖母)が短い叫び声を上げました。「どうしよう。あの子、まだ中にいるじゃない!」周りの人が止めるのも聞かず、祖母はがむしゃらに走り出しました。裸足で玄関を駆け上がったとき、大きな揺れがふたたび身体を貫くのが分かりました。建てつけが歪んでなかなか開かない引き戸を無理やりこじ開けて、この状況下にもかかわらず静かに眠ったままの次女をしっかりと胸に抱き、歪んだ引き戸を背にした瞬間「家の中でいちばん大きな和箪笥が、ゆっくりと捩れるみたいに倒れてきたんだ」と祖母は言いました。間一髪。ふたたびおもてに逃げ出した祖母は、安堵のあまり孫を抱いたまま子供のように声を上げて泣きじゃくりました。若い母親も泣きました。にもかかわらず、次女はまだ死んだように眠り続けたままでした。なお、そのとき長女は、微かな余震が続く居間で倒れたこけしを一体ずつ丹念に並べ直していたそうです。さすがは姉ちゃん、ちょうクール。
というわけで。わたしこそが、その死にぞこないの次女なのでした。こんなんされたらそりゃあもう、おちおち死ぬとか言えませんよね。もしもばっちゃんがいなかったら、その身を挺して助けに来てもらえなかったら。わたし、そうとう高い確率であのまま土に還ってたんだろうなあ。それもわずか生後10日で。それが理由の全てではないけれど、だからわたしは何があっても「死にたい」とは願わないのです。生かされてる、生きることを許されてる、そういうことを忘れちゃいけない。というようなことを、地震がくるたび思い出すんです。そうは言っても、福島にいたせいか全然気付かなかったんですけどね今日の地震。仙台はどうだったんでしょうか。震度4なら結構大きかったんだろうな。
終業後、いそいそとタワーへ。待ちに待ったシャーラタンズの20周年アニバーサリー盤がようやく入荷、とのことでわくわくしながら買いに出かけました。今も聴いてます。ああ、いいなあ。すごくいいなあ。詳細後日。おやすみなさい。