almost everyday.

its a matter of taste, yeah

気づいたら棘だらけだ

睡眠時間3時間にて、いつものように出勤。さすがに今日はしんどいだろうと思いきや、意外にも身体にキレがあったので驚きました。そうか、「同じ相手に対して同じレベルのストレスを抱いている者どうしのシンパシー」とはこんなにも強く深く濃いってことなのか。栄養よりも睡眠よりも、ともに分かち合える愚痴のほうが疲れを取るのに有効な場合だって時にはあるのだ。ってことがよくわかりました。すごいな、このききめは。

それにしても、俺ら、マンガみたいにわかりやすい至極単純明快な(しかしそれゆえ根の深い)対人関係のねじれに翻弄されすぎではあるまいか。年少者の弱味につけいるばかりで自分は胡坐かいてるだけ、だなんてそんな汚い大人にはならないぞ。と決意を新たにした次第であります。ちなみに、わたしの中での「汚い大人」の定義とは、自分よりも弱い(≠若いとか未熟だとかあるいはいっそ単純に頭がわるいとか社会的弱者であるとか、そういうこと)相手への態度そのものが汚いというか、見下してるのがあからさますぎるひとのこと。それにもひとつ、自分もかつては若くて不器用だったことをすっかりなかったことにしている、そういうひとのことでもあります。そういう黒いあれやこれやは心の中だけにとどめておきなよ、思っていても顔には出すなよ、と切に思うわけです。差別っつうのは原則として自分ひとりでやるべきだ、自分の中だけで完結させるべきだ、とも思います。自分の中の判断基準に合致しない相手だけをこっそり心の中でののしってればいいのです。その判断基準を「みんな」っていう不特定多数に敷衍した時点で、それは急激に暴力に近しいものへと姿を変えるのだと思います。わたしは、それが、とても怖い。その刃が仮に自分(や、近しいひとたち)へ向けられたら?と思うとたちまち身がすくんでしまいます。だから自分ではそうならないよう努めているのです。自分がされていやなことは他人にもしない。この上なくわかりやすいことのはずなのに、どうしてそれを忘れてしまえるの?わからない。だからよけいに悲しくて苦しい。

仕事が立て込んだのと遊んで帰りが遅かったのとが重なって、月曜からずっと相方に電話もメールも返せないままでいました。それでやっと今日電話をしたら、最初のひと言が「ああよかった、ちゃんと生きてた」だったので思わず力が抜けてしまいました。ああそうか、わたしはかつてこのひとのこういうところに骨抜きにされたんだ。ってことをめずらしく思い出したよ。ありがとう。おやすみなさい。