almost everyday.

its a matter of taste, yeah

ハレルヤ、ピーチ姫

桃という果物について、貴重だとか有り難いとか、そういう類の感情を抱いたことはただの一度もありません。実家で生産していたわけではないものの、うちの近所は田んぼと桃畑しかないようなところで、毎年毎年夏になると出荷できない傷ものの桃がそこかしこのご近所から「良かったら食べて」と集まってくるのがお決まりのパターンであり、その量たるやすさまじいもので(最終的にはいつも段ボールひと箱半くらいになっていた)、毎食後に家族全員揃って食べても食べまくってもその山はいっこうに小さくならず、あげくの果てにお盆をすぎたら少しずつ腐っていく・・・というような、あくまでそういうイメージなのです。だからこそ、生まれ育った土地を離れて(っても同じ県内ですけど)からというもの、「桃の産地ではない町」における人々の桃に対する意識を垣間見るたび、何となく不思議な気持ちになりました。何だかとても遠くに来てしまったような。

というのも、わが両親はあらゆる点において大味というかワイルドというか非常に大雑把な感覚の持ち主で、ひとり暮らしの娘に突然箱入りの梨やりんごや桃などを送りつけてきたりする困った人達なのですが。これら一人ではとても食べきれない量の果物類を職場の人や友人たちにおすそ分けするたび、大抵の人は目を輝かせて「うわあぁ、いいの?ありがとう〜」と実に嬉しそうな顔をしてくれるのです。それが桃の場合は特に喜びの度合いが大きいように見てとれるので、わたしは何だかとてもいいことをしたような充足感に浸る反面、どうにも割り切れない気分を味わうことになるのでした。「だって、たかが桃だよ?」という意識がどうしても拭いきれないのです。

これがもしも実家で育てた桃ならば、事情はだいぶ違ったものになるのでしょう。手塩にかけた「生産品」としての桃を誰かにプレゼントするのであれば、そこにはきっとなにがしかの自負心というか誇らしい気持ちのようなものが湧いてくるに違いありません。しかし、わたしにとっての桃はあくまで「何もしなくても手に入るもの」なのです。ひどい言い方をしてしまえば「道端でたまたま拾ったもの、あるいは家にあったいらないものを誰かにあげているような」気分。誰かに桃をあげているときに感じる割り切れない気分、その正体はおそらく罪悪感なのでしょう。ごめんなさいね、生産者の皆様。しかし現在、うちの玄関わきの箱の中にはまだいくつもの桃が・・・。食べきれるのだろうか、自分。

そんなわけで本日は友人を自宅にお招きし、食事がてらまたしても桃を譲ることにしました。快く受け取ってくれてありがとう、友よ。来週あたりまた飲みましょうねー。それではおやすみなさい。