almost everyday.

its a matter of taste, yeah

言い訳はしない

少し前から気になっていたこと。どうも自分は「〜するしかない」という言い回しが苦手、というより嫌いであるようなのです。

とはいえ、いくつか例外もあります。たとえば本やCDの宣伝文句によくある「読むしかない」「聴くしかない」「買うしかない」みたいなのは特に何とも思いません。決まり文句ですんなり耳に入ってくるから、というのもありますが、さらに大きな理由として「否定的なニュアンスがない」というのが挙げられるように思います。「読んでよ、聴いてよ、買ってよ!」という商魂たくましさが透けて見えはするものの、そうしたエゴも資本主義社会においてはむしろ正しく健やかな姿勢として認められているわけだし(たぶん)。

ということはつまり、逆に考えてみると、これから起こる未来のことを「否定的なニュアンス」で「断言する」という行為が嫌いなのです。てめえろくに考えもしないで、という反抗心がむらむらとわき上がってくるのを感じるのです。こういうことを言われるのは決まって仕事中で、言われる相手は上司もしくは先輩であって、こうした言葉が出てくる背景には容赦ない人員削減とそれに反比例して増え続ける仕事量とのせめぎあいがあるわけで、そうした膨大かつ煩雑な作業を合理的かつ円滑に捌くためには「〜しかない」という考え方も必要なのだという理屈も分からないわけではないのだけれど、それでもやっぱり嫌なのです。いらっとするのです。結果的にそうなることが予測されてしかるべき場合においても、わたしだったらその言い回しは使いたくない。「〜するのが最善と判断しました」って言いたい。たとえ結果が同じでも達成感は違うと思う。結果よりプロセスが大事、という言葉が空しいきれいごとのように響いてしまう場合も少なくないけれど、それでもやはりやるからにはベストを尽くしたいと思うのです。それでごはん食べてるなら当然じゃないか、とも思うのです。ううむ。

・・・と、ここまで書いて「そういや前に似たようなことでいらっとしたことがあったっけ」という思いが頭をかすめました。はて何だっけ、と記憶の底をさらってみてどうにか思い出すことができました。「言葉にならない」とか「筆舌に尽くしがたい」とかいう言い回しも嫌いなのでした、わたしは。そして今でもそれは変わりません。「言葉にならない」というのは「言葉にする」という労力を出し惜しみしているだけだ、と思います。「言葉にならない」のではなくて「言葉にしない」だけなのです。「かたちにならぬ思いなど/かたちにならぬ程度だよ」ってことなのです(byテルスター)。こうしてみると、自分は延々5年以上もずーっとおんなじようなことばかり考えてるんだなあ。というところに思い当たってがっかりするようなほっとするような心もとない複雑な気分になるのです。それはまあ、しかたないか。おやすみなさい。